天竜川の畔にある二俣城は松平(徳川)信康切腹で有名であるが、その昔1500年代、桶狭間で今川と共に討死にした松井氏の居城でもあった。
今川義元の死後、氏親の時代になると、急速に今川の勢力は衰えるとともに、松井氏も同様精彩を失い、しかも一族は徳川、武田へと分散化が進み、一族としての勢力を完全に失ってしまった、と推定される。色々な文献によれば、遠州の松井氏は清和源氏の流れを持ち、由緒ある系統とある。しかし、これらに関連する話はグーグルを検索すれば、あれこれ掲載されているようなので、ここでは割愛する。
数年前のNHK大河ドラマ 「おんな城主直虎」 の中で活躍した 瀬戸の方久 は元来 松井一族であった、と私は初めて知った。ドラマ終了後、宝林寺近くの 方久の末裔 というお宅を訪ねて、そのような話を伺い、供養塔を見せてもらったりした。史料関係は博物館などに預けてある、とのことでした。
後日、浜松博物館に行き、方久が授かった 徳川家康安堵状(実際のものは今川の安堵状だったが、追認した?) が展示されていたのを確かめてきた。安堵状には五人ほどの氏名が記載されていたが、どれも氏名の頭に地名があり、都田何某、祝田何某とあり、その中に 赤佐何某 もあった。あくまでも私の推測ではあるが、これが我が先祖であろう、と。私の実家の言い伝えの中に 「ながそで様」 という話があり、また実家屋敷から西南へ数十メートル程の所に供養塔のようなものがあった。父は祖父から大事にするように言われて来たが、土地の売買の関係上現在は取り除かれて、屋敷内に建てた一族の供養石碑の中に納められた、とのことである。
ずいぶんと端折って書いてしまったが、今私の手掛けている 田んぼビオトープ もそんな先祖たちの思いの籠った 「遺物」 と思うと感慨深いものがある。